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なんとなく… [ギター人生]

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あまりにご無沙汰なんで、こっぱずかしい気もするが3年ぶりにブログを更新してみようと思った。


ログインするのにだいぶ手こずってしまった。。一応メモってあったんだが、途中で一回IDを強制的に変更されていたのを忘れていたのだ。このいきさつは数本前の記事に載っていると思う。


僕はここ数年、やや体調に不安があって、積極的に活動できなかった。

ところが今年三月、転機が訪れて少しずつポジティヴな気分になってきた。


好きなテニスもしばらくお休みしていたのだが、この秋ぐらいから復帰できればと思っている。


でもそれより何より、音楽したい気分でいっぱいなのだ!

こんど2017年8/5(土)に久々に自分のバンドのライブをやるのだが、ぜひみなさまに観に来ていただきたい。今なら自分をさらけ出せるのではないか?なーんて思うが、どうなるかな。


とにかくブログで何を発信していくかも含めて、再出発します。



僕のギター人生8 [ギター人生]

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【4WAY STREET/Crosby,Stills,Nash&Young】

 シカゴとほぼ同時期に好きになったのがCSN&Y。「オハイオ」をラジオで聴いたのがきっかけかな。桐朋の友人のD君が「4ウェイ・ストリート」という2枚組のライブを持っていて、貸してもらってからハマったのかもしれない。4人とも才能あふれる作曲家、ギタリスト兼ヴォーカリストでとにかくハーモニーが美しかった。鉄弦のアコギを初めて良い!と思ったのもこのバンドかもしれないなあ…。デヴィッド・クロスビーはややシュールで、深みを感じさせる曲が多かった。スティーヴン・スティルスの曲は斬新でハーモニーが美しいものが多い。グラハム・ナッシュは唯一の英国人で、ホリーズというポップ・バンドにいた人だが、キャッチーで優しい雰囲気の曲が印象に残る。そして二ール・ヤング。彼は攻撃的だったり限りなく優雅だったり一言では表せないが、胸を打つ佳曲がいっぱいあった。非常に個性的な4人が、このプロジェクトではお互いを尊重し、楽しんでいるような雰囲気があったと思う。「デ・ジャブ」、「キャリー・オン」、「青い眼のジュディ」、「オハイオ」、「ウッドストック」、「ヘルプレス・ホーピン」などが特に好きだった。そういえば20代になって就職し、初めて買ったMTR(マルチ・トラック・レコーダー)で最初に吹き込んだのは「青い眼のジュディ」で、1人で3声のハーモニーを重ね録りして悦に入っていた。

 そうそう、その頃は毎月シンコーミュージックの「ミュージック・ライフ」を買っていた。人気投票がひとつの売り物だったような気がする。バンド部門の当時のベスト5はレッド・ツェッペリン、グランド・ファンク・レイルロード、ディープ・パープル、C,S,N&Y、ピンク・フロイドみたいなかんじ。ビートルズはもう解散してたのでランク外だったが、解散前にツェッペリンに一位の座を奪われて話題になったりしていた。ギタリスト部門はエリック・クラプトンがいつも一位で、ジミー・ペイジ、リッチー・ブラックモア、アルヴィン・リー、ジェフ・ベックといったところが上位だった。みんなハード・ロック系だね。やっぱりハード・ロックはギターがヒーローである。

 さて、中学校1~2年当時の僕はあいかわらず、ショーウィンドウに飾られたエレキ・ギターに憧れる少年だった。当時はまだ小学生のときに買ってもらったガット・ギター一本しか持っていなくて、これに鉄弦を張ってCCRやシカゴ、ビートルズ、CSN&Yなどをコピーしていたわけだ。しかし「いつか絶対エレキを買って、バンドをやるんだ!」という決意は早くからしていたと思う。当時お互いに家を行き来していた友人のMがドラム、MTがベースで、僕がギターを買ってバンドをやろう、という話をおそらく中学一年生の終わりくらいからしていたと思う。(つづく)


僕のギター人生7 [ギター人生]

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【シカゴⅢ】
 
  CCRの「アップ・アラウンド・ザ・ベンド」はアップ・テンポの軽快なアメリカン・ロックで、サビのハーモニーもかっこよかった。この頃の僕は美しいハーモニーがある曲じゃなきゃツマラン…という感覚だったような気がする。ビートルズもそうだが、エレキのサウンドときれいなハーモニーが好きになるポイントだった。だから「レット・イット・ビー」よりも「サムシング」の方が、「ドント・バザー・ミー」より「プリーズ・プリーズ・ミー」の方が、「イエロー・サブマリン」より「恋を抱きしめよう」の方が好きという感じだった。もちろん例外はあるけどね。

 で、CCRの次にハマッたのはシカゴとCSN&Y。シカゴは当時のヒット曲、「自由になりたい(I Just Wanna Be Free)」を聴いたのがきっかけだったように思う。異様にカッコいいギターのイントロから続いていきなり分厚いハーモニーのサビから出るこの曲が一発で気に入った。そしてお小遣いを貯めて3000円もする最新作、2枚組のシカゴⅢを買ったのをきっかけに、ⅠもⅡも続けて買い求めた。全部2枚組で合計9000円だから中学生には大変な出費だ。シカゴのブラス入りのサウンドも当時は珍しくて、他にはB,S&T(ブラッド・スウェット&ティアーズ)くらいしかなかった。「自由になりたい」は曲の中盤にブラス3本(正確にはトランペットとトロンボーンとテナー・サックスなんだけど)のユニゾンによるジャズっぽいリフが出てくるのだが、これも衝撃的だった。そのほかにも「イントロダクション」、「いったい現実を把握するものはいるだろうか」、「ビギニングス」、「僕らに微笑を」、「ロウダウン」、「クエスチョンズ67&68」とかが大好きで、今でも名曲ばかりだと思う。

 ギタリストのテリー・キャスは後年ロシアン・ルーレットの真似事をしているときに拳銃が暴発して(??)亡くなっているのだが、ジミヘンっぽいワイルドさとジャズっぽい繊細さを兼ね合わせた素晴らしいギタリストで、ワウワウの使い方も斬新だった。ちなみに僕はシカゴの最初の日本公演、武道館でのライブにも行っている。’71年の6月16日で、東京公演は一度きりだった。これが僕の外タレ・ライブ体験第2弾であった。第1弾はなぜかピンク・フロイドで、これは友人MTに誘われたもの。シカゴは確かB,S&T好きの友人Oを僕から誘ってふたりで観にいったと思う。あまりの爆音に耳がおかしくなりそうだったが、これを機に外タレのロックのライブにちょくちょく行くようになった。当時はまさにロックの黄金期で、今考えると信じられないようなビッグネームが次々に来日していたのだ。いい時代に中学生をやっていたものである。(つづく)

《久々の掲載となってしまった「僕のギター人生」ですが、バック・ナンバーはページ左側の、「カテゴリー」にある「ギター人生」をクリックすればご覧になれます。ぜひご一読下さい。》


僕のギター人生6 [ギター人生]

 三鷹市大沢に引っ越したのは小学校5年生のときだった。近くにサレジオ教会というのがあって、僕はその日曜学級に参加することになった。広大な敷地を持つ教会では近所の子供たちに体育館と運動場を開放し、いろんなスポーツをさせてくれたのだった。その代わりキリスト教の講話みたいなものを聞かされたりもしたが、子供は遊びが大好きである。僕は中でも卓球に夢中になった。卓球が上手な、K学園小学校の同級生H君も通っていてよく二人で日が沈むまで打っていた。
 
 6年生になってから僕は念願のスポーツ・クラブに入部しサッカーと野球に入れ込んでいたのだが、卓球はそれとは違う感覚のスポーツで、練習すればするほどうまくなれるような気がした。

 そして、長い長い小学校の6年間も終わり、僕は国立市の男子校、桐朋中学校に進学することになった。10歳年上の兄が通っていたので僕も漠然と桐朋に行きたいと思っていたのだ。小学校5,6年生のときのキビシい補習授業のおかげか、なんとか合格することができた。クラブは野球やサッカーも捨てがたかったが結局卓球部に決めた。

 両親が念願のステレオを買ってくれたのもそのころ。たぶん入学祝いということだったんだろう。3点セットの小さなものだったがむちゃくちゃ嬉しかった。

 入学してみると、おもしろい奴がいっぱいいた。特に音楽にやたら詳しいのがクラスに4~5人いて、僕らはすぐにお互いの家に遊びに行って持っているレコードを聴いたり貸し借りしたりして交流を深めていった。D君はレッド・ツェッペリンが大好きで、太っちょのM君はグランド・ファンク・レイルロード、O君はブラッド・スウェット&ティアーズ、MT君はピンク・フロイドとサンタナのファンだった。しかしMTはそれだけではない、クリームやジミ・ヘンドリックス、キング・クリムゾンなどのLPもたくさん持っていた。3歳くらい年上のお兄さんがロックが好きだったので、その影響もあったのだろう。MTはK学園小学校の隣にあったU小学校の出身で、家も近かったのでしょっちゅうチャリンコで行き来をしてロックの話ばかりしていた。
 
 ところで僕が中学校に入って生まれてはじめて買ったLPは「マジカル・ミステリー・ツアー」、2枚目は「ミート・ザ・ビートルズ」だった。ビートルズはその年('70年)解散し、映画「レット・イット・ビー」がロードショー公開された。もちろん僕も観にいった。解散と映画公開の影響で再び世界中でビートルズ・ブームが再燃しており、映画館は超満員、しかたなく立ち見で最後まで観ていたが、終わると泣き出すおねーちゃんがいっぱいいた。

 そんなわけでビートルズは依然として大好きだったが、D君やM君、O君やMTの絶大な影響力のおかげで僕は次第にロックの深みにはまっていった。3枚目に買ったレコードはクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(略称CCR、この頃はやたらと長い名前のバンドが多いね)の「コスモズ・ファクトリー」であった。「アップ・アラウンド・ザ・ベンド」というめっちゃくちゃにカッコいい曲が収録されていたからである。


僕のギター人生5 [ギター人生]

  【日本の至宝、釜本邦茂】

 そんなわけで、小学校5年生になるとK学園では男子の過酷な特訓が始まるのだった。中学受験である。一日6時限の授業を終えると男子だけ居残って2時限の補修という名の受験勉強をさせるのだ。キツかった。子供心に「小学生がこんなに受験勉強させられるなんて世の中間違っている」などと憤慨していた。

 しかし5年生からはクラブ活動も始まって、それなりに楽しみもあった。4年生の終わりに各自希望のクラブを用紙に書いた。第一希望から第三希望まで書かされる。僕はスポーツが大好き。特に野球とサッカーが好きだった。で、当然スポーツ・クラブを第一希望にした。なんとしても夏は野球、冬はサッカーをやる男子スポーツ・クラブに入りたかった。音楽の成績がよかったので、音楽の大石先生は「昆君は音楽クラブに入って欲しい」と言ってくれたが、絶対いやだった。なんとしてもスポーツ・クラブしかない。そこで、第一希望男子スポーツ・クラブ、第二希望英語クラブ(人気があったのだ)、第三希望美術クラブと書いたのだ。音楽クラブと書いたら第三希望でも入れられちゃうと思ったからだ。そして僕は美術クラブに入れられた。

 先生から告げられたときは大泣きした。信じられなかった…これほどサッカーと野球が好きなのに、スポーツ・クラブに入れないなんて(絶句)。しかし何度言っても希望は入れられず、僕は一年間美術クラブでがまんした。その年ジャイアンツは4連覇を達成し、釜本擁するサッカー日本代表はメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した。あーあ。
 
 そんなわけで意外と忙しく、ギターのレッスンはお休みすることにした。それでもビート・ポップスは毎週観ていたし、ギターは自作ピックで弾き続けていた。いとこのおねーちゃんが「ジョーン・バエズ」のLPを買ってきてくれたりし、生ギターもいいもんだと思ったりした。その頃の夢は、第一希望プロ野球選手、第二希望ギタリスト、第三希望サッカー選手だった。


僕のギター人生4 [ギター人生]

 
【30歳。この頃はフュージョンバンドをやっていた。】

 
 もちろん日本のGS(グループ・サウンズ)も好きだった。当時のTVのお気に入り番組は「勝ち抜きエレキ合戦」(いいタイトルだ)と「巨泉のビート・ポップス」、まんがは「ポパイ」と「鉄腕アトム」、「鉄人28号」、「エイトマン」、その他「てなもんや三度笠」、「シャボン玉ホリデー」、「スター千一夜」などだったのだが、最初の二つは見逃すと泣く!という状態だった。

 「勝ち抜きエレキ合戦」は文字通りアマチュアのエレキ・バンドの勝ち抜き戦。シャープ・ファイブというインスト・バンドとシャープ・フォークスという4人組のボーカル・グループがレギュラーで模範演奏とかしていた。シャープ・フォークスには後にホタテ男となる安岡力也がいた。

 

 GSで好きだったのはタイガースかな。「シーサイド・バウンド」とか「君だけに愛を」とか、レコードを持っていた。ブルーコメッツも好きで、「森とんかつ、泉にんにく」とか「マリアの泉」などを聴いていた。

 
 
 スパイダースもカッコよかった。そのほかモップス、ジャガーズ、オックス、ヴィレッジ・シンガーズ、ダイナマイツ、ゴールデンカップス、ズーニーブーとか、ほんと色々なバンドがブームに乗って活躍していた。

 「巨泉のビート・ポップス」は土曜日の三時からやっていた。大橋巨泉と星加ルミ子(ミュージック・ライフ編集長)が司会の洋楽ポップスDJ番組というかんじ。ランキング順にビデオを流すのだが、ビデオが無いときは意味なくおねーさん達がスタジオのフロアで踊っていた。このビート・ポップスでローリング・ストーンズやビージーズ、ウォーカー・ブラザーズなどをはじめて観た。「やっぱりアメリカのバンドはかっこいいな」。と当時はビートルズもストーンズもアメリカのバンドだと思っていたのである。欧米か!?ストーンズは「悪魔を憐れむ歌」とか「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」なんかのビデオを観た。ビートルズも当然たびたび登場していた。この番組で観ていいと思ったから「ハロー・グッドバイ」のドーナツ盤を買ったのだ。リンゴがちっこいドラムを叩いていて、みんな海賊の衣装を着て演奏しているあれだ。

 そう、TV番組といえば「ザ・モンキーズ」も見てたなあ。「モンキーズのテーマ」とか「デイ・ドリーム」とか「アイム・ア・ビリーバー」なんか好きだった。

 そんな風にいろんなバンドを見るにつけ、エレキ・ギターへの憧れは日に日に強くなっていった。よく三鷹の楽器屋さんのウィンドーに飾られていた、グヤトーンやテスコのエレキを長い時間眺めていたものだ。

 小学校は幼稚園がミッション系だった関係で、東京C市にあるK学園というアーメンの学校に行った。ひとクラス40人くらいで一学年に2クラスしかなかった。そのせいか生徒同士がわりと親密で、今でも年に何度か飲み会をして盛り上がっている。中にはほぼ毎回僕のライブに顔を出してくれる親しい友人もいる。

 何年生のときだったか忘れたが、「音楽発表会」みたいなのでクラスのバンド演奏をしたときに、ギターを弾いた覚えがある。曲は当時人気のあった「これが青春だ!」という学園ドラマのテーマ曲だった。これが僕の初ライブかなあ…。同級生でギターを習っているのは僕だけだったようだ。よく「身だしなみ検査」で右手の爪が伸びていることをチェックされ、「だってギター習ってるんだも~ん!」と抗議したりしていた。K学園は小学校が男女共学なんだが中学・高校は女子高だったので、男子は当然6年生が終わったら出て行かねばならなかった。(つづく)


僕のギター人生その3 [ギター人生]



【これは2001年10月、ジャズ・ギター道場に入門した頃。右端が宮之上先生、となりにベレー帽の太田雄二(現師範代)、上にギターを持つ田上君、横に僕】


 その頃もちろんビートルズの名前は知っていた。愛読書「少年サンデー」(おそ松くんとオバケのQ太郎が好きだったのだ。伊賀の影丸とかミラクル・エースなんかもよかった)に特集記事も載っていたし…。でも僕の中では「髪の長いバンドより短いバンドのほうが好き」という、なんとも不条理な基準があったのだ。当時は日本もGS(グループサウンズ)ブームが訪れていて多くのバンドが活躍し始めていたのだが、寺内タケシ&ブルージーンズとかブルーコメッツ、ワイルドワンズなんかは短髪組、対してスパイダース、タイガース、ジャガーズ、テンプターズといったところが長髪組だった。で、たぶんベンチャーズが短髪だったから「短髪バンドが好き」ということになったのだろう。友達には「ビートルズはキャーキャー言ってうるさいからキライ!」てなことを言ってたと思う。ほんとはキャーキャー言われてただけなのだが。
 
 で、その年('66年)ビートルズが日本にやってきた。羽田は大騒ぎ、赤坂のヒルトン・ホテル付近には女の子が大集合!ということでマスコミのビートルズ狂想曲が始まり、僕もテレビを観てみることにした。番組が始まると、ドリフターズ(あのドリフである)とか、内田裕也とか、いろいろ日本のバンドが前座で入れ代わり立ち代り出てきて「hear me,Beatles」とかなんとか言って歌っている。それがすんごく長いのだ。亀田のボクシング中継みたいだった。

 で、やっと出てきたビートルズ。会場は嬌声の嵐で拍手さえない。嬌声というより絶叫か?とにかく異様な雰囲気であった。音楽はよく聴こえなかった気がする…。というか、全然曲も知らなかったのでよくわからなかったのだろう。しかし見終わったあと、僕はすっかりビートルズ・ファンになっていた。長髪バンド・アレルギーもすぐ完治。なにが良かったんだか訳が分からないが、とにかく圧倒されてしまった。


 
 それからはもうビートルズ命、子供って単純だなあ。最初に手に入れたレコードは「プリーズ・プリーズ・ミー/アスク・ミー・ホワイ」のドーナツ盤。その次はいとこのお姉ちゃんが買ってきてくれた「イエロー・サブマリン/エリナーリグビー」、その次は「ハロー・グッドバイ/アイ・アム・ザ・ウォルラス」だったかな?とにかく何枚かレコードをGETして、やはり電蓄で聴いて、必死にコピーしたり歌ったりしていた。(つづく)
 
 


僕のギター人生その2 [ギター人生]

【35歳くらい。吉祥寺のライブハウスにて】
 
 三鷹駅前のギター教室で教鞭を取っていたのは阿部先生という30代中ごろくらいの方だった。同じクラスには、ひとつ年上の小学校3年生Nくんと、中学生のお姉さん、Hさんがいた。なんで名前を覚えているかというと、三人とも名字が1字だったからである。結構珍しいでしょ?最初に習ったのは、「ブンチャッチャッチャ、ブンチャッチャッチャ」というリズムで、どこも押弦せずに6弦と1,2,3弦を親指と人、中、薬指で弾く…というもの。3人でそれを弾いていると、先生がそれにあわせてメロディを弾いてくれるのだ。ちょー簡単だった。それから徐々に曲の演奏に移っていくのだが、はっきり言ってレッスンの内容はよく覚えていない。習った曲は今でも覚えているのだが。
 
 というのはぜんぜんクラシックが面白くなかったのだ。僕が好きなのはあくまでもエレキだったのである。「エレキの若大将」以来完全にハマッていたのだ。ギターを習いに行ってしばらくすると、父がドーナツ盤のレコードを買ってきてくれることがあった。最初はナルシソ・イエペスの「禁じられた遊び」。定番ですね。次は同じくイエペスの「アルハンブラ宮殿の思い出」。これはびっくりした。いったいどうやって弾いているんだろう??ぜんぜん見当も付かなかった。でも自分でトライしてみようとは思わなかった。てーんで無理だとよくわかっていたのだ。後年R社で教則ビデオの制作をやっているとき「アルハンブラの思い出一曲マスター」というビデオを作ったが、その時はじめて弾けるようになった(今はところどころ忘れたので、弾け!といわないでね)。
 
 というわけで、僕のニーズにぜんぜん合致しないレコードばかりだった。そこで、父にリクエスト。「お父さん、『君といつまでも』を買ってきてよ」。すると次の日父が買って帰ってきたのは、なんとベンチャーズ版の「君といつまでも/夜空の星」のカップリングだったのだ!最初見たときは「お父さんこれ違うよ~」と文句を言ったのだが、電蓄でかけてみると…ぎょえー、かっこいい!特に「夜空の星」はロックっぽいアップテンポの曲だし、リード・ギター(死語)が途中で大胆にフェイクしていて死ぬほどカッコよかった。今から考えるとマイナー・ペンタトニックのフレーズをはじめて聴いた瞬間だったかもしれない。

 それからはベンチャーズに夢中!である。当時はドーナツ盤と同じサイズで33回転の4曲入り、通称「ミニLP」というレコードがあったのだが、ベンチャーズのそれをお小遣いを貯めて何枚か買って電蓄で聴きまくった。「ダイアモンド・ヘッド」、「パイプライン」、「急がば廻れ」、「マリナーNo.4(邦題は夢のマリナー号)」、「ブルドッグ」、「テルスター」、「キャラバン」、「10番街の殺人」、「ブルースター」、「パーフィディア」、「アウト・オブ・リミッツ」といった名曲を毎日飽きずに聴きまくった。
 
 クラシックの練習などほとんどしない。またしなくても弾けてしまった。もちろんレッスンは教則本(今でも使われている「カルカッシ・ギター」という伝統あるもの)を使ってするのだが、譜面を読むことさえなかった。先生がお手本を弾いてくれればだいたい耳コピーできてしまうからだった。幼稚園時代のヤマハ音楽教室でのトレーニングが奏効していたのだ。しかしおかげで僕は30代後半までまるで譜面が読めなかったのである。

 で、何をしていたかというと、学校から帰ると小さなガット・ギターでひたすらベンチャーズをコピーしていたのだ。古くなった下敷きの端っこをハサミで切って角を丸めた自作のピックを持って…。
 
 2002年に渡辺香津美さんの教則DVD、「ソロ・ギター・パフォーマンス」という作品をプロデュースさせていただいたのだが、香津美さんもそうだったとお聞きした。
【㈱リットーミュージック ¥3,800(税抜)】
「下敷きピックはすぐ割れて、何枚も新品の下敷きを切り抜いていた」というお話で、僕も弦に当たる先っぽからヒビが入って割れてゆく自作ピックの様子を思い出した。

 ビートルズの洗礼を受けるのはその翌年('66年)であった。(つづく)


僕のギター人生その1 [ギター人生]

  このブログをはじめてから2週間、ほとんど気まぐれで開設したはよかったが、色々と考えさせられることも多い。ブログは本来日記なんだが、公開することを前提にしてるわけだからやっぱり多くの人に読んで欲しいとも思うし、コメントが付かないと「あれ、これ興味湧かなかったかなあ?」などと考え込んでしまったりもする。ネタ探しも大変だし、写真を撮ったりスキャンするなんてことも結構手間がかかる。また最近は「ブログ炎上」なんて言葉もあるくらいでいつ荒れるかも分からない。案外気苦労が多いもののような気がしてきた。それにいっぺん始めると、やめるにやめられないっていうのもありそうだ。でも、いろいろ楽しいこともきっとあると思う。例えばブログがきっかけですでに新しい仲間ができたし、さっきは仕事も飛び込んできた。これらのことはすっごく嬉しい。

 というわけで気を取り直し、これから少しずつ僕のギター人生について思い出しだし書いてみようかと思う。恩師、宮之上貴昭先生が御自分の半生記をブログで公開されている(じゃずぎたりすと物語、 http://ymweb.exblog.jp/)が、それに倣って進めていこうと思う。ただし不定期になると思うので、あしからず。
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(幼少時の写真が実家にしかないので、意味も無く25歳くらいの写真を載せてみる。これにヒゲが付いたのが今の僕?)

 僕は生まれたとき、練馬に住んでいたらしい。中村橋というところだが、1歳までしかいなかったので当然なーんも覚えていない。物心付いたときは東村山市の萩山というところにいた。近所の暁星幼稚園というミッション系幼稚園に通っていたのだが、入園と同時に園内で開かれていたヤマハの音楽教室というのに親が入れてくれて、そこでオルガンを弾きながら色々と音感のトレーニングなどをやった。テレビのCMで、
「ドレミファソーラファミッレッドー。ソーファミソファミレ…」などとやっているあれだ。今考えると非常に良かった。あれで歌を音名で唄うくせがついたし、小学校のときも音楽と図工だけは成績が良かった。実際に音感やリズム感が鍛えられたんだろうし、音楽好きにもなったんだと思う。
 
 ギターとの出会いは、「エレキの若大将」だった。加山雄三主演の映画、若大将シリーズのうちの一作だ。僕の亡くなった母は音楽好きで、いつも鼻歌を歌いながらご飯を作ってくれるような人だった。その母が加山さんのファンで、若大将シリーズは必ず連れて行ってくれたのだ。小学校2年生の僕は、エレキのサウンドにシビレちまった(死語)わけだ。テッテケテケテケ…という6弦スライドダウン奏法、カッコよすぎた。で、さっそく親に「エレキ買ってくれ~」とねだったのだが、「冗談言うな」みたいな反応。当時はエレキ・ギターは「社会の害悪」みたいな受け止め方をされていたのだ。エレキ=長髪=不良、エレキ=騒音公害みたいなかんじ。しかし「クラシックなら買ってやってもいいぞ、その代わりキチンと習いに行け」という話になって、やや小さいサイズのガット・ギターを買ってもらい、当時萩山から移り住んでいた吉祥寺に程近い、三鷹駅前のギター教室に通い始めた。まだ8歳である。(きっとつづく)


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